Dear Doctor
普段、邦画をみないけれど、西川監督の作品は本当にしびれるものがある。
当然、現代においても映画監督という業が男性中心で女性監督の視点でというのが
珍しいというのもある。
ただ、西川監督のおもしろいところは男女というストリーテリングをしないこと。
どちらかというと、ちょっと男っぽい作品だなという印象がある。
かつて、Esquireでのインタビューで西川監督自身が恋だの愛だのといった分野
はどうしても苦手意識があって手が出せないと話していた。
でも、当然なんだけど「恋だの愛だの」というテーマは男女という全く別の生き物
だからこそ、女性視点が少ない中では強烈なインパクトを残せるし、話題にはなりやすい。
勝負しているのがそこじゃないところがいいし、西川監督はアメリカ映画に育てられた
と自身で言っている通り、ヨーロッパ的影響があまりみられない。
前段で、男っぽい作品と書いたのは、ラブストーリーのような女性的感覚が最大限活かされるものを扱っていないのと、無口な感じこそなんだと思う。
心理描写や風景の構図何をとっても女性的というのが少ない。
つまるところ、男女の境目無くして作品として素直にすばらしいなぁという感想を持てるということ。
今作においては、プロダクションノートにある通り、人から見えている自分と自分で思っている自身は実は違うのではないかという点から着想したとある。
そうあるように物語はそう進む。ただ、非常に興味深いのは僻邑をそのテーマとシンクロさせているところ。
当然、そのテーマがうまく描かれているのはもちろんのこと、それ以上に「僻邑」の描き方が非常にすばらしかった。(当然ながら僻地の雇われ医師の奮闘記でもない。)
先週、ちょうど東北の秋田県にいって(秋田市からローカル線とローカルバスで2時間位の場所)、感じたことと映画がリンクしていたのでなおさらそう思った。
村社会と古来から伝承されたきたシステムが崩壊して久しいけれど、当然、それは現代社会のシステムとの乖離が大きくなったからこそ、そういった現状がある。
それは、ちょうどドラッカーの著書「断絶の時代」が未来を予言していた通り、産業構造も人の流れも、情報もすでに異なる次元に来てしまったことが一つの原因だと思う。
都会と田舎という構図じゃないないし、昨今の映画(特に田舎をテーマにした)は、そういった点を必要以上に美化している。田舎は美しいと田舎にこそ日本人の心があると。ただ、そこには何もリアルなものはない。
美しいものも、醜いものも都会と同様にそこにはあるし、もっと言ってしまえば何か遠い未来の日本の縮図が田舎なのではないかと。都会では当然醜いものが沢山あるけれど、誰でもそれは見なかったことにできる。それができないのが田舎だし、遠くない将来、都会でもそれはきっとできなくなる。(はず。)
映画の話しに戻れば、西川監督は必要以上に田舎の人間を美化していないというよりも、ずっと醜いものを見せていた気がする。
きっと、映画を観てもらえばわかると思う。
あと、特筆すべきは、笑福亭鶴瓶と八千草薫をキャストに向かえて、なおその二人を活かす(二人が監督を活かすとも言えるのかもしれないが)その力量だと思う。単純に長編3本目?にして、それはすごいとただただ思ってしまった。
とにかく、すばらしい映画だったと思う。
前作、ゆれる
ウルトラミラクルラブストーリー
これはすごいね。このドタバタな感じ。
松山ケンイチの喋る津軽弁(?)は映画が始まってすぐは耳がなれなくてほとんど放送事故レベルに等しいくらい何を言っているのかわからなかった。
シンプルな映像だから、すごさはかけるけどストーリー展開といい、最後のドタバタな感じはポール・トーマス・アンダーソンの「パンチドランクラブ」や「マグノリア」を思い起こさせる。
批評家とか、映画監督が結構好きそうなというかこれをできる人がメジャーな日本監督に何人いるかという意味ではすごいし、何より邦画が最も不得意とするファンタジーを織り交ぜたストーリーが新鮮だった。
ここでポール・トーマス・アンダーソンの話を敢えて書いたのは、西川監督の所で書いたインタビューで気になる監督に彼を挙げていた。
西川監督と横浜監督は全く異なる性格の持ち主であることは間違いない。
予告でみたけど、横浜監督の次回作が半端ない感じだった。
そもそも、両監督見る前から、女性監督だし、きっと好対照だなと思っていたのと、予告を観た時点で圧倒的に異なるこの個性を観ねばと思い二作を観て見ました。
まだ観ていない方は映画館で観ましょう。
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