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2009年9月23日水曜日

The Limits of Control

リミッツオブコントロールを観た@バウス

個人的には短編っぽい作り方なのだから、もっと短くして欲しかった。

という感想だけ書いておく。

スペインいいな。

セビリアいいな。ジャームッシュがスペインってのがあり得ない。

個人的には
クリストファー・ドイルやはりいい仕事したなと思う。

あとはパス・デ・ラ・ウエルタ。イーサンホークの『チェルシーホテル』以来でみた。やはりよい。
他の俳優陣は主役のイザック抜かせば、惜しみないちょい役だからなんともいえない。ここ2作のビルマーレーの使い方にくいよね。

イザックはなんかラースの『マンダレイ』の役がこびりついて離れなかった。

感想述べろと言われても難しい。ワンシーンワンシーンでおもしろいなぁとかいいなと思うところは沢山あるけれど。

ということで終了。

Dialog in The Dark


Dialog in The Dark行ってきました。

ちょっと高いけど、とてもよかったです。
ドイツっぽいというか、まさにドイツですね。

何がよかったっていうと、いかに視覚に頼っているかがわかるところ。
そして、唯一完璧に100%の純度でなくすことのできる感覚。

だから、他の感覚に全てを委ねるのだけど、突然他の感覚が、いかに普段眠っているかをたった60分暗闇にいるだけで実感できてしまう。

嗅覚も触覚も聴覚も視覚がないだけで、こうも違うかとかなり驚いた。

よくTVなんかでボックスの中身を当てるとか、目隠しした状態で何を食べているかをあてる企画があるけどあの感覚。

暗闇の概念がかなり変わる。ある意味で盲目になる準備ができた。
本当に盲目になったら・・・だけど、絶望するほどでもないのかもしれないと本当に思った。

記憶やイメージ。視覚というのはすごいなぁと改めて思った反面、この感覚がなければ世界はもっと違って見えるのかななんて思いました。

これはお金払ってでも行く価値が十分にあるので是非行ってみてください。

同じグループになった女性グループは、その中の1人への誕生日プレゼントだといっていたけど、かなりセンスのいいプレゼントだと思う。

お勧めは仲違いしている友人、家族、恋人といくこと(笑)
個人的にやってみたい。

大地の芸術祭





大地の芸術祭。にいってきた。

実態がなんなのかわからずに誘われるがままに。
確かにいろいろリサーチをしてからいってもよかったなとも思うのだけど
こういうのは、基本的よくわからないまま行ったほうがよい。

新潟県十日町近辺で開催されているわけだけど、半径20kmに数百と点在
するアート作品があるので一日ではまず全て観るのは不可能。

ということで、足早に数点を見るに留まった。
ただ、今回はというかいつもだけど、アートそれ自体を見るつもりは毛頭なく
、それも変な話だけど・・・とにかくどのように運営されているかがあくまで興味の中心。

福武氏恐るべしというか。
いっちゃ悪いが何の変哲もないこの地に国内外問わずアート作品を集めるその実力はさすがと言うほかない。

ここでとにかく重要なのはこの町だけではこの規模のものは集まるはずがなく、そして新潟県の作家を集めたってこんなにおもしろいものはつくれないということ。

表現としてのアートというよりはどちらかというと目的あってのものだから
ある意味純粋な枠組みの芸術というよりは、どちらかというとデザインに近い感覚なのかもしない。

アーティストの性分とか本質とかそう言うのはさておき、受け取る側にはどうなのかというところを書いていく。

今回素直に思ったのは十日町エリアいいところだなぁと言うところ。
何の変哲もないただの農村なんだけれど、でもそのよさは十分にわかった気がする。
このアートイベントが何で、どういったことを意味するかということよりもずっと大切なことだと思う。

というのも、すでに一緒にいった方が書いているけど“どこかにアートがあるかわからなず、あんでもそう見えてしまう”という感じ。

感覚的にどんな物でも、それっぽく見えてしまうというのが意図してかしてないか別として


セントルイスからシカゴまでの道のりは大きなハイウェイで行くのだけど、その横にはルート66が昔のまま残っている。

“残っている”といっても全て残っているわけではなく、点在している。

どこかで切れて、また突然現れるという感覚。

それに似ている。現れてはなくなりの繰り返し、ただ標識や看板を目印に探して行く。
あのドキドキに近い。

それで思うのだけど、やっぱりロケーションありきということ。
米どころでもあるこの土地は山に囲まれている。だから平野の田んぼではなく棚田がほとんど。ランドスケープがとにかく美しい。

そういった中に突然アートが現れる。廃校や廃屋、田んぼのど真ん中に。

全てを観たわけでもなく、ほんの一握りの作品しか観れなくても満足感がある。
アートというよりもデザイン的一面がとても強いように思える。というのも作品の多くがとても示唆的というか、この村の歴史やなんであるかを題材にしていたように思う。

別の過疎の町で、土地の人と話したことがあって“結局こういう過疎の町では、自分たち(その町について)について知ろうともしないし、興味もない”と嘆いていたのを思い出した。

でも、果たしてそうなのか。

確かに知ろうとしない、興味を持たないというのはそうなのかもしれないけれど、知るきっかけを誰も示せていないだけではと思う。

多くの町で思うのだけど、そこに存在した歴史というのは案外部外者にとってみればおもしろいもので(こう思うのは自分だけかもしれないが)、そういうのを何かで示せたらいいなといつも思う。

伝統文化も廃れた町も全て、人々が何かに気づくときには、多くの場合は手遅れになった後のことが多い。

伝えることのできる人が年を取り過ぎていたり、すでに亡くなっていて資料や現物しかなかったり。

当然、多くの問題となるのは地域の人の関わりなのだけど。まず、自分たちが気づかない限り外から来た人がどうしたって何も変えることも、本質的なよさも伝えられない。

だからこのイベントでとにかくうまいなぁと思ったのはそういうのを地元の人にも示唆できるものが沢山あったこと。地域の参加レベルは残念ながらといところだけど直島なんかより見せ方はうまいなと思った。

そして、なにより福武氏なんだけど、すごいなと思わせるのはメディア露出と協賛に関わっている企業の多さ。

このイベントの知名度なんてメディア露出したところで大したことないし、そういう情報がリーチしている都会の“アートな人”からすれば「へー」ってところかもしれないけど、地域の人にとっては自分たちの町が取り上げられることってうれしいことじゃないかなと。(しかもこういったものがなければ全国的にフォーカスされる町ではないことを考えれば)

こうやってブログで書く人もいるだろうし、興味を持つか、持たないかはともかくとして知覚する可能性が広がるわけだし。

結局、一緒に行った人は、自分も含め↓がとても気に入っていた。
最後の教室
クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン







なんか、高校の文化祭の展示を思い出す。
【少年の部屋】