なまはげはこないことになる。
家族に不幸があった場合、なまはげは3年間その家には入らないから。
祖母が亡くなる、ちょうど一ヶ月前に男鹿にいったのだけど、祖母がこんなことを言っていた。
この3年の掟について
「昔は、ハタハタ漁が不漁だったり、身内に不幸があったときその家ではなまはげに入ってもらっていた。」
もはや、この真偽を確かめる術は限られているのだけれど・・・祖母の言ったことはこの3年の掟よりもずっと理に適うと思っている。
なまはげは来訪神の意味合いが強いとされている。
通説では次の通り
「年の折り目に神が来臨して人々に祝福を与えるという古態をとどめ、我が国古来の民間信仰の一形態を示すもの」とされている。
そのルーツとしても、自然信仰や神道、仏教、その他もろもろの伝説や習俗が織成した寓話が今に残っているのものだと思う。
この地域に残る伝説で、なまはげの始まりとされるものの一つに「武帝の五鬼」説っていうのがある。
他の言い伝えの中で、正直これが最も信憑性にかける説ではあるけれど、もっとも人間的な部分がこの伝説にはる。そして、それが口述伝播の際に昔から好んで使われたのもよくわかる。
五鬼伝説の内容は割愛するけれど、五匹の鬼は家族で、内2匹が両親で3匹が子供。
この土地に五鬼が来た後すぐに両親の2匹の鬼は死んでしまったそうな。
その供養として3匹の子供の鬼がなまはげ行事を始めたとさ。
他の自然信仰説や修験者説、異邦人説なんかよりもずっとロマンがあって、寓話としても受け入れることができる。
何よりも祖霊供養っていうのは、原始的な信仰の中でも、神道、仏教的意味合いでも崇高なものだから。
なまはげがなんなのかという議論はほとんど意味をなさないまでも、こういうことを感じることができる心はいつまでも残っていてほしい。
祖母の通夜の席で、世代や血縁の遠近を問わず「なまはげ」をキーワードに一つの会話が成り立つというのを知ったとき、この行事の本当のすばらしさを初めて知ったような気がする。
この土地に関係のあるすべての人々にとって、なまはげを想うこととは、我々の祖霊と繋がる一つの共通方法であり、共通項であり続けてほしい。
● 吉田三郎 『男鹿寒風山麓農民手記』昭和10年 より 引用
15日の夜が来ると前に面を作った場所に集合し、午後6時ごろまでにちゃんと準備をする。このなまはげの面をつける人は、若者の中で至って頑丈な、しかもいくらでも酒を呑める者で、交代でそのなまはげの役割をもつのです。(中略)先ず最初の3人が扮装に着手する。
第1に大きな藁沓をはく、第2にケダシを腰に一つ、肩に一つ巻きつける。次はミノを著る(ままる:着る)。第3に鬼面を被る。第4に鍬台か、出刃包丁かあるいは、トゲのあるタラの木の棒を各一つづつもち、これで完全になまはげの扮装は出来るのである
。
(中略)こんどは愈々村端れの家から尋ね回ることである。むらの幾組かのなまはげが必ず示し合わせて一緒にならぬようにする。何処の家でも最初に来たなまはげを一番なまはげ、二番目に来たなまはげを二番なまはげ、三番目に来たなまはげを三番なまはげとそれぞれ称える。一番なまはげは男鹿の真山、本山の方から、二番なまはげは太平山の方から、三番なまはげは八郎湖のほうからスガ(氷)を渡って来ると申している。
さて愈々家に入るときは、なまはげの従者10人でも20人でもの若い者は、一緒に声を合わせて、ウォーウォーと奇声をあげて、なまはげを家にいれてやる。家に入ったなまはげは3人共腰や肩に巻きつけたケダシを一挙一動にガサガサと音を立てつつ、手にした兇器を振り回し土間の内の板や戸にわざとらしく打ちつけて音を立て、3人声を合わせて、ウォーウォー、と奇声をあげつつ其処の家の主人の居る所に行く。そしてなまはげは太い声で「新年お目出度ふ」と年調を述べる。すると主人は「なんとご苦労様だった」と言うと、「オー」と返事をする。
主人
「何の方面から参りました。」
なまはげ
「真山本山の方から。」
主人
「お名前は何と申し。」
なまはげ
「ナベノフタトテノシケ」
主人
「おお、ご苦労様だった。」
なまはげ
「オー」
其処で主人とこうした挨拶がかわされてからまた、なまはげはまた立ちあがる。そして、やはりケダシをガサガサさせ兇器を振り回して、愈々本舞台に入る。
なまはげ
「ウォーウォーここのエで泣く子がいだが、いねが。三太が泣くが。お春が泣くが。親の言うことをきくが、きがねが。ウォーウォー若し泣いたり親の言うごときかねば貰ってゆく。ウォーウォー何処にいだ。ウォーウォー」
こうして三人のなまはげは座敷であろうが、物置であろうが、押入れであろうが、二階であろうが、梁であろうが、どんどん捜し求めます。もしも子供や初嫁や初婿でも見つかったらそれこそ大変だ。子供はとんきょな声を出して泣き叫ぶ。それでもけつをひねってやる。子供はあー痛いと泣き叫ぶ。気の弱い子供は一時気絶さえすることが珍しくない有様です。初嫁などは又子供のように声を出さないで無言でなまはげに対抗してくる。けれどもなまはげにはかなわない。モンペの諸などきらされて、暗い押入れの中で痛いほどけつをひねられたり、また言うに言われぬまじないごとをされるのである。こうした場面が終わるとなまはげはまた主人のとこに戻ってくる。すると主人は酒肴と餅の用意をしているから
主人
さぁなまはげど、なまはげど。おい三太やお春やまた読めなどは泣きもしないし、朝寝もしな い。よーくとそりのいうこときくから、ごめんしてやって先ず一杯やってくれ。」
なまはげ
「それではごめんしてやるか。」
と言いお膳に座る。そして主人はおおきな飯茶碗になみなみと濁酒をついで飲ませるのである。その間又主人となまはげの間に問答が始まる。
主人
「なまはげど。今夜何処にとまるか。」
なまはげ
「ウォーウォー。おらはお宮のウド木にとまる。」
主人
「なんぼ日とまる心算でしか。」
なまはげ
「ウォー。そうだ。おらは四日も五日もとまるが、おらの子分が年から年中居る。だから何時でも、三太やお春が泣いたりとそりのいうこときがねがたり、又嫁が我侭をしたりしたら、おれひ、ひば何時でも来て、貰ってゆくから。ウォー」
主人
「ナマハゲど。ナマハゲど。ひば、泣く子貰って行って何とするしか。」
なまはげ
「ウォー。それは今持て来た叺に入れてゆって、お宮に行ってから、火を焚き五尺もある串に尻から頭まで刺して焙って食うのだ。」
といって一杯の濁酒をぐっと呑み干してけたたましく去ってしまうのである。荷物背負い男はなまはげが去ってから叺を持って来て、大きな餅を二枚貰って帰るのである。持ちのない家即ち百姓以外の家では銭をくれます。
0 件のコメント:
コメントを投稿